木は森に隠せ

自分の考えをアウトプットする。

怒りの矛先

仕事をしていてうまくいかないとき、つい誰かのせいにしたくなることがある。

いや、実際に誰かのせいであることもよくある。

言い訳したくなるのである。

 

あの人が・・・って言ったから。

この人がこうしろって言うから。

あのときはそう思ったんだけど・・・

 

大体こういうことばかりである。

ただ、自分がそれを言いそうになったときは、ぐっと我慢する。

結局は、何かができないことの言い訳をしているだけなのである。

 

そう思って、逃げずに仕事をしていれば、ストレスは溜まるかもしれないが、実力は少しずつついていくだろう。

アウトプットの大切さ

仕事というのは、アウトプットである。

アウトプットができるからこそ、そこに成長がある。

 

最近流行りのyoutuberは、立派なアウトプットである。

あのように何かをアウトプットするというのは、労力がかかり、そのアウトプットがあるからこそフィードバックが得られる。

このブログも、アウトプットの一つである。

続けることの難しさ、大変さ、日々アウトプットを出すことの難しさを改めて感じる。

しかしながら、これらを続けることにより、アウトプットを出すことに対する慣れ、考え方の変化があると信じる。

スズキ・ジムニーに乗って

今日はスズキ・ジムニーに乗った。

元同僚のジムニーで旅先から帰ってきたのであるが、私が運転したがっているのを見て、運転させてくれた。

 

先代のジムニー、JB23である。

660ccの軽ターボを運転するのも初めて。

 

普段ロードスターにのっているため、着座位置が高くて不思議な感じ。

軽とは言え、背が高いと見晴らしがよく、運転はとてもしやすい。

エンジンは軽快そのもの。さすがに低速トルクが豊かとは言えないが、それが逆にガンガン回して乗るスタイルにピッタリである。

やはりこういったクルマはMTで乗るに限る。

 

ロードスターとの共通点は、軽いこと、である。

とにかくジムニーは軽い。1t前後であり、ロードスターとほぼ同等である。

この軽さが良いのである。

とにかく、ワインディングを走るときも軽快。

背が高い分、ロールするのかと思いきや、車体が軽いことと意外と低重心なことから、くるくると回る。全然違和感がないのである。

 

ちなみに、ジムニーファンが言う、ジムニーの魅力とは、”機動”であるらしい。

まさに、どこでも走れる、いつでも走れる、軽快に走れるジムニーこそ、まさに機動である。

ジムニーが楽しい理由がよくわかった。

実用性の観点からも、欲しくなってしまうのが危険である・・・

頼朝桜まつり

頼朝桜まつりへ行ってきた。

河津桜が町内各所に14000本植えられているとか。

 

とにかく、季節を先取りするというのは良いことである。

昨日書いた通りである。

 

morinikakuse.hatenadiary.jp

 

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木によって状況は異なるが、ほぼ満開が近い状況からまだつぼみの木までそれぞれである。

今週末はちょうど見頃となり、また人が少なく落ち着いて見られるのが良いところである。

季節の先取り

コンビニでは、秋口におでんが一番売れるらしい。

普通に考えると、一番寒い真冬に売れるような気がするが、そんなこともないみたいだ。

これはやはり、季節を先取りしていきたいという人間の思いなのかもしれない。

四季のある日本ならではの感覚かもしれない。

 

今の季節、圧倒的に桜が見たい。

この寒い季節が終わろうとしているときに、桜が見られるとものすごく春を感じるのである。

河津桜はそういう意味で日本人の心を掴んで離さない。

河津桜は各地に広がっていて、神奈川県では松田山、三浦海岸あたりに桜並木がある。

 

桜は見頃の期間が短いことで有名だが、複数の地域、咲く温度の違いによって、結果的に長く楽しめるものになりつつある。そしてこの咲き始めにドッと人が押し寄せるのである。

日々の生活を穏やかに送る

一人で暮らす。

男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く。

 

まだやもめと言える年齢ではないが、確実に一歩ずつ近づいている。

一人暮らしというのは、年月を重ねるごとに快適になっていくものである。

いろいろな家事が、どんどんできるようになっていく。

 

料理、裁縫、洗濯・・・いろいろなことが、どんどん高質化していくのである。

 

一方で、刺激は少ない。

外乱がないのである。落ち着いて当然といえば当然だ。

乱されることがないから落ち着くのである。

しかしながら、本質的な落ち着きというのは、外乱の中で落ち着いていることかもしれない。

そういう意味では、外乱のない中での落ち着きというのは、おそらく最終的な落ち着きとは違うのだろう。